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2023-01-01 15:35:00

日本の縫製工場 マーヤ専務視点

以前noteで書いた内容

僕の祖父、菅谷 重が東京で1959年スガヤ洋裁所設立して、今日まで60年以上。。現在は僕の父、菅谷 智が社長として二代目を継承しています。

衣食住の仕事はなくなることがない、千葉でコメ農家で育った祖父は、上京して服作りの仕事を祖母と共にすることになりました。自転車で反物などを運んでいた話や、子供をおぶったまま、包丁で生地を裁断していた話など、とんでもエピソードが多い創業期は、子供服をつくることからスタートしました。
現在の会社名、マーヤとなったのは、近所の有名なお寺、西新井大師に命名していただいたもので、由来がお釈迦様の母、摩耶夫人からいただきました。
時代の変化から子供服からジャケット工場となり、より高い技術で社員教育に力をいれ、依頼が殺到し、ふるさと千葉に第2工場をつくりました。

洋服がなかった時代、デパートのラックが丸ごと空になり、品薄のため縫製工場前にメーカーさんが並ぶと表現されるほど、今では考えられないほどの需要がありました。

そこからバブル崩壊と中国製の安価な輸入衣料の波とともに、1990年国内に流通する衣料品で日本製は50%となり、目まぐるしい勢いで輸入される、安価な海外製品に対抗できないまま、2020年現在は2%まで落ち込みました。

そんな激動の中2000年に父、菅谷智が社長に就任し、どのように2%に含まれたかというと、徹底して高級品、品質に特化することでした。
採算度外視でなんどもなんどもやり直すこと、設備投資、社員教育、、
同業者では経営難で自殺に追い込まれてしまう仲間もその時期にあり、とにかくがむしゃらに働いたと聞きました。製造コストの安い、東京から地方や海外に工場移転する流れ中、東京で服づくりをすること自体、並大抵のことではありません。

東京の立地を生かし、急ぎのコレクション衣装やコンサート衣装、遠くに送るのは不安な高価な生地や、ディティールを現場近くで作りこみたいデザイン性の高いもの、お直し対応。スピードと品質、柔軟な対応力の信頼を積み重ね、なにかあったらマーヤさん、マーヤさんなら。。担当者が転職先でも依頼するケースも多く、徐々にものづくりを大切にする新しい取引先が増えました。新規の場合は、ロットも少なく、不慣れなため生産効率も悪いので正直、赤字覚悟で挑まなければなりません。将来性があるブランドさんを見極める力も必要ですし、逆に伸びるなと思うところとしか取引はせず、伸ばそうと協力できることは身を挺してやります。

2015年に僕、菅谷 正が入社し、ほぼモノづくり未経験のため、戦力に全くなりませんでしたが、前職アパレル販売員の経験などもあり、製造業からサービス業の色が強くして、本人としてもブルーカラーとホワイトカラーを合わせた、スカイブルーカラーを目指しているようです。(真面目)
販売員時代に百貨店の衰退や、ファストファッションの全盛期をみて、今まで通りいかないことへの危機感を強くもっています。

ここから新規取引先を個人デザイナーを増やし、人を介してコミュニケーションより、直接つながることで、無駄なロスを省き、シンプルに都内アトリエとして共にものづくりをすることで、着てもらうお客様にも、ストーリーが伝わり服になりました。

キッカケはニューヨークのマンハッタン、ガーメントディストリクトの話を都内縫製工場の方から聞いたことです。その地区は政府がアパレル関係の事業者のみで区画を整備し、そこにいけば学校も生地も糸もアトリエもすべてそろっていて、デザイナーさんもそこで完結して、同じ空間で服づくりが行われているそうです。

本来そうあるべきで、昔はどこもそうだったはずの光景が、分業、効率化、大量生産、コスト競争の果てにバラバラで遠くなってしまいました。

現在は地域活動も積極的に行い、行政認定の足立ブランドや千葉県のマイスター制度を利用した取り組み、異業種コラボや服以外の生産など、幅広く仕事をしています。

風林火山で地の利をいかしたことや、時代や状況に応じて風向きを読み取ること、服づくりで困っている人もまだまだ多くいますし、これからも必要とされることだと信じています。

マーヤ縫製工場 菅谷正